世相閻魔帳⑯「顕正新聞」令和3年10月5日号
阿部日顕にタバカリを粉砕された大草
本コラムが偽戒壇・正本堂の完工式に〝キリスト教神父〟を招いたことを認めた阿部日顕の発言を挙げて、良観講(妙観講)の頭目・大草一男のウソを指摘したところ、大草が編集等に関与している宗門の謀略紙「慧妙」九月十六日号は、実に噴飯物の弁明を開陳した。
「当時、創価学会が出した本に掲載された完工式の写真を使って、浅井が『キリスト教神父が法服を着て参列している』と大騒ぎし続けたことにより、(阿部日顕)上人も『法服であった』との御認識を持たれたのであるから、悪いのは浅井ではないか!責任転嫁もいいかげんにせよ」と。
腹の皮が捩れるほど笑うしかなかったが、恐らくこの厚顔無恥は死んでも治らないだろう。
そもそも浅井先生は、池田大作が国立戒壇否定のために建てた偽戒壇・正本堂の完工式にキリスト教神父を招き、大聖人様の御法魂たる戒壇の大御本尊様の御座所を穢し奉ったことに対し「その恐れ多さを思えば、全身が凍る思いである」として、連々と諫暁された。
一方、大草一党は、学会と宗門が蜜月だった時代に偽戒壇・正本堂を擁護するための粗末な邪義・タバカリを量産、それらを以て先生率いる顕正会に攻撃を仕掛けてきた。〝正本堂完工式に参列したのはキリスト教神父ではなくバチカン市国の外交官だ〟とのタバカリもその当時つくられたものだ。
ところが、先生の諫暁により学会と宗門が「修羅と悪竜の合戦」よろしく凄絶なる大抗争へと発展すると、平成五年、阿部日顕は池田大作が正本堂完工式にキリスト教神父を招いたことを暴露した。それが「顕正新聞」九月五日号の本コラムで挙げた阿部日顕の三つの説法である。
日頃「大聖人の代理者」と仰いでいた宿主たる阿部日顕自身の手によって大草のタバカリは木端微塵に粉砕され、学会もろとも背中から串刺しにされてしまったのだから目も当てられない。
それにしても、このような滑稽極まる〝黒歴史〟を取り繕うためとはいえ、「(阿部日顕)上人も『法服であった』との御認識を持たれたのであるから、悪いのは浅井ではないか!責任転嫁もいいかげんにせよ」とは笑わせる。
老婆心ながら教えてあげよう。「認識」とは「認め知ること。物事をはっきり知り、その意義を正しく理解・弁別すること」という意味だ(精選版日本国語大辞典)。
つまり阿部日顕が歴とした「法服」であると正しく理解・弁別したというのであれば、「悪いのは(阿部日顕の「御認識」なるものを否定する)大草一男ではないか」ということになる。何でもかんでも人のせいにすれば済むと思い込んでいる大草一党の思考回路はどうかしている。
常人は論理が矛盾した文書を読むと気持ち悪くなるが、寄生虫に論理もへったくれもあったものではない。「責任転嫁もいいかげんにせよ」との言辞は熨斗をつけてそのまま返す。
なお、大草一党は「日亨上人が『信謗の区別なき一般的なもので、順縁とも及ぶべきであるから、禁制に及ばぬ』と仰せられている通り、一般的な立場だからこそ背広で来たのであり、宗門の謗法与同など、どこにもない」などと強弁し、是が非でも宗門の謗法与同を認めたくないようだが、これも甚だしい曲解である。
「信謗の区別なき一般的なもの」とは「一般の未入信者」の意であり、キリスト教神父は当たらないからだ。
大草一党よ、あがくほどにペテン師ぶりが露呈しているぞ。
大草の謗法与同を決定付ける証拠写真
次に、法華講大講頭(本部役員)の立場にある大草が、ネパールで開催された宗門・妙観講の行事で〝ヒンズー教の本尊〟を祀った件について。
未だに大草一党は「NGO組織」なるものに全ての責任を擦り付け、「(大草は)気付いていなかった」「知らなかった」「不可抗力」とふざけた弁解をしている。
また、大草は邪宗団体後援の下、邪宗の大学で「法華経の講義」を行った際、自身の眼前で〝釈迦の絵像・仏像〟を祀った件についてもゴマカシを図っている。
と言うのも「慧妙」九月一日号は、大草が釈迦の絵像・仏像を祀っている写真から仏像が映っている部分を巧妙にトリミング(カット)したものを掲載。火が灯された燭台の側で祀られた仏像の存在を完全に隠蔽した上で
「修行僧(ブッダ?)の絵が立てかけられた写真」
「修行僧の写真が写り込んでいることなど、大草講頭には知る由もなかった」
と、失笑ものの見え透いたウソを臆面もなく書き並べているのだ。
しかし、往々にして人はウソをつくことで却って墓穴を掘るもの。大草一党は「気付かなかった」「知らなかった」とのウソで切り抜けようとしているが、要は大草が謗法の像の存在を認識していたら「謗法与同決定」ということだ。
だからこそ大草一党は、本コラムが掲載した〝大草が謗法の像の存在を認識していたことを決定付ける二枚の証拠写真〟、すなわち①大草の座席側からガネーシャ像を撮影した写真、②大草の眼前で祀られた釈迦の仏像に関する写真について、未だに「慧妙」で触れることができないのだ。
ここにも不都合な事情には緘黙する寄生虫の醜い習性が見て取れる。
聞くところによると、本コラムに掲載された釈迦の絵像・仏像を祀っている大草の写真を見た全国各地の宗門僧侶や法華講員の衝撃と動揺は相当なものだという。
御在世の良観は「二百五十戒」という戒律を持っていると吹聴しながら、その実、一戒も持たぬ破戒の偽善者だった。
大草も「謗法厳誡論」なる本を物し、「妙観講の基をなす信条」をまとめた冊子では講員に対し
「やはり、自分の中の自覚できる謗法は絶対に許すことなく、さらに、気付かずに犯している謗法をも見つけ出して断じ尽くす、という厳格さをもって仏道修行に励んでいかなくてはなりません。そうしていかないと、自分の中の謗法は次第に大きくなっていって…大謗法の者となってしまうのであります」
などと講釈を垂れながら、その実、自らは平然と謗法に与同し、そのことがバレたら「気付いていなかった」と嘯くご都合主義だ。良観と誠にソックリではないか。
矯賊の商人・大草よ、早く「良観講」と正式に改名したらどうか。(天皷)