世相閻魔帳

顕正新聞のコラム「世相閻魔帳」

寄生虫の指導教師・小川只道の死がもたらすもの

世相閻魔帳97「顕正新聞」令和6年12月5日号

 去る令和6年10月21日、大草一男が講頭を務める妙観講の指導教師だった小川只道が死亡した。享年83歳。
 本コラムにおいてたびたび登場した小川だが、この男ほど無節操・厚顔無恥・狡猾な禿人はいない。
 阿部日顕とその直属の謀略集団・妙観講のパイプ役だった小川について今回は触れておきたい。
 以下、簡単にその略歴をまとめる。

異例の出世

 小川只道は昭和31年12月に創価学会へ入信後、同38年4月(21歳の時)に細井日達を師範として得度する。
 小川は昭和47年に大石寺内事部に入り、同52年3月には宗内で格が高いとされる「理境坊」の住職に抜擢された。異例の出世である。
 その背景には、浅井先生の諫暁によって池田大作と細井の間に亀裂が生じて深刻な抗争へと発展した折、小川が反学会活動家僧侶グループ(後の正信会)とともに細井に仕え、細井と法華講連合会等が秘密裏に連絡をとる際のパイプ役としての尽力があったからと言われている。

理境坊に大草を迎え入れる

 以前の本コラムで詳述したとおり、大草は学会を脱会して昭和48年に法道院(東京都豊島区)に所属後、細井が阿部信雄(後の日顕)などの親学会派僧侶、とりわけ池田大作が肩入れしていた早瀬日慈総監(早瀬日如管長の実父)を憎んでいることを知り、同人を追い落として細井に取り入ることを画策した。
 大草は法道院の機関紙に掲載された教学未熟な信徒の記事等を利用し、昭和52年12月、〝法道院は住職を重んじ、猊下を軽んじている〟などと讒言を構えて細井に直訴し、仲間とともに法道院を離籍した(その後、早瀬総監は総監辞任に追い込まれた)。
 細井は大草の謀略の才を見抜き、大草とその仲間を小川が住職を務める理境坊に所属させた。ここから小川と大草の悪の二人三脚が始まる。

無節操の極み

 昭和54年7月に細井が急死し、池田大作のバックアップを得て親学会派僧侶の筆頭・阿部日顕が自己申告で管長に就任すると、宗門情勢は急変した。
 池田大作ベッタリの阿部は、細井の下で小川らが共闘していた反学会活動家僧侶201名を宗門追放するなど、容赦ない弾圧を開始したのだ。
 細井が急死した当初、小川と大草は従前どおり反学会活動(正信覚醒運動)を継続する姿勢を示し、実際に継続していた。
 このことは昭和54年9月1日に発行された理境坊支部の機関誌「暁鐘」に、小川と兄弟のような間柄だった反学会活動家僧侶・西本暁道の追悼文「御遺訓を胸に、さらに正信覚醒を」を掲載し、小川も「(細井が)最後の御説法にまで、正信覚醒の御指南をされていたことをけっして忘れてはならない」などと記した追悼文「御師範日達上人を偲び奉りて」を掲載していたことからも明らかだ。
 しかし、阿部の反学会活動家僧侶への弾圧が始まって暫くすると、小川と大草は保身のために瞬く間に変節し、阿部に同調して池田と学会を擁護し、昭和56年3月からは「暁鐘」誌上で細井の下で共闘していた反学会活動家僧侶への執拗なまでの攻撃を開始した。
 この変わり身の速さには驚きを隠せない。

細井を裏切って命乞い

 当然、一部の宗門僧俗は小川と大草の無節操を次のごとく非難した。
 「最近、『暁鐘』の内容が変わってきたように思います。当初は正信覚醒運動に役立つ雑誌であると思っていましたが、とくに本年(※昭和56年)に入ってからは、正信覚醒運動の悪口を書いた記事が載るようになってきました。いったい、どういう理由で編集方針を変えたのか、謗法の権力(※池田大作と阿部日顕)に諂って正信を捨てたとしか思えません」(暁鐘40号)と。
 すると狡猾な小川は、大草の入れ知恵かは知らないが、〝実は細井から「どうも正信覚醒運動の方向性がおかしい。やがては総本山にも矢を向けることになりそうだ。もし、あのメンバーに入っているのなら、今のうちに脱けておきなさい」との御指南を賜わっていた〟などと突如言い出し、露骨なまでの変節を正当化しようとした。
 しかし、これは先に示した小川の追悼文(細井が最後の御説法にまで正信覚醒の御指南をされていた……)と正反対の内容である。
 要するに、小川は保身のために細井の下で共闘した仲間を見事なまでに裏切り見捨てた挙句、ついには得度以来の恩人・細井の〝遺言〟とも言うべき最後の説法を抛ち、細井が「学会にべったりでどうしようもないヤツ」と断じていた阿部に命乞いをしたわけだ。
 このような己の利害しか頭にない輩にとっては、御本仏の御遺命がどうなろうと痛くも痒くもないのだろう。
 かくて無節操・厚顔無恥・狡猾な小川はまんまと生き延び、その後も阿部に媚び諂い続け、昭和57年5月には大石寺理事に出世した。

身延僧を懇ろに案内

 平成2年以降に学会と宗門が「修羅と悪竜の合戦」そのままの凄絶な抗争に陥ると、阿部は信心の欠片もない元学会顧問弁護士・山崎正友を抗争に利用することを画策し、平成6年12月に山崎を宗門復帰させた後、同人を小川の指導監督下にある妙観講に所属させた。
 また、阿部は「敵の敵は味方」の論理で戒壇の大御本尊様を怨嫉する「仏敵」たる邪宗日蓮宗(身延派)との連携工作を山崎に担わせた。その手引きにより、平成6年11月5日、身延派総本山・久遠寺内の志摩坊住職で山梨県第一部布教師会長の佐藤順映以下8人の身延僧が大石寺に参拝するに至ったが、このとき身延僧らを懇ろに案内したのが小川だった。
 しかも、小川は仏敵である佐藤に「皆様の暖かなお心に触れ、外はめっきり寒くなっていたにも拘わらず、暖かな気持ちで御案内申し上げることができましたことを感謝しております」などと記した礼状を後日送付していた。
 「戒壇の大御本尊の敵」を大石寺に招き入れて懇ろに案内した挙句、「感謝」の意を表する礼状まで送った小川の所行は「仏法中怨」の誡めに背き、日興上人の身延離山の大精神を蹂躙する許し難きものである。

大草と悪の二人三脚

 加えて、小川は悪の二人三脚の相方である大草とその一党を援護・擁護し続けた。
 具体的には、大草が編集・発行に関与している宗門謀略紙「慧妙」の監修を長年務めたほか、大草が著書を発行する度にその監修を引き受け、それを発行・販売する「株式会社ぎょうしょう」(本店所在地は妙観講本部、代表取締役妙観講副講頭の佐藤せい子、取締役は大草ら)でも「監査役」に就くなど、株式会社ぎょうしょうの売り上げアップに間接的に貢献した。
 また、小川は妙観講員が顕正会員に卑劣な暴行を加え、それに大草及び妙観講が関与したと裁判所が認定(確定)した後も何ら適切な指導をしなかった。
 さらに、小川は大草一党のインド・ネパール等におけるデタラメ勧誘にも直接関与している。
 小川自ら現地に赴き霊友会系の邪教団体の代表者らと接触したほか、大草一党が「授戒」の意味を「改宗」ではなく「僧侶に祝福してもらえる」と謀って大勢の現地の人々(インド・ネパールでは人口の約8割以上がヒンズー教徒)を集めて実施した「GOJUKAICEREMONY」でも何度か導師を務めた。
 なお、現地の人々が撮影した写真の中には、小川が観光客のように浮かれ、大草一党の面々と酒を酌み交わして腑抜けヅラを晒している姿を撮影したものが多々ある。これらを見れば「法師の皮を著たる畜生」の小川の本性がよくわかる。

謗法与同等も追認

 加えて、小川は大草一党がヒンズー教の本尊・ガネーシャを祀ったり、大草が釈迦の絵像・仏像を祀ったりしていたことが判明した後も何ら咎めもせず、彼らが「慧妙」紙上で愚にもつかない弁明をすることも止めさせなかった。
 だから大草一党はますます調子に乗って、より大胆な謗法与同、すなわちネパールの邪宗の大学と共同・協力し、世界各国の邪僧らと肩を並べて釈迦仏法の大事を訴える謗法セミナーを開催するに至ったのである。
 もっとも、小川は先述のとおり大石寺内で身延僧を懇ろに案内するという謗法与同を平然とやってのけた禿人だから、大草の謗法与同に歯止めをかけることは無理な話だ。

寄生虫の死滅近し

 以上、小川の略歴を簡単にまとめたが、信心の欠片もないその所為に照らせば、小川が悪臨終だったことは言わずもがな、である。
 何より、小川という後ろ盾を失った寄生虫の死滅がより近づいたことは間違いない。(天皷)