世相閻魔帳

顕正新聞のコラム「世相閻魔帳」

宗内に巣くう寄生虫「妙観講」の実態①

世相閻魔帳84「顕正新聞」令和5年9月15日号

 令和元年9月20日、日蓮正宗(宗門)の第67代管長・阿部日顕が命終したことで、その直属の謀略部隊「妙観講」(塔中理境坊所属)及びその講頭である大草一男が宗内から消え去るのは、もはや時間の問題となった。
 宿主が命終した以上、その寄生虫が自力で生存していける道理は無いからだ。
 本コラムでは、これまでも大草一党の悪事やペテン・虚言等を明らかにしてきたが、今般、改めて細井日達・阿部日顕の二代の悪貫首に取り入り正系門家の中で跳梁跋扈してきた大草一党の悪行の数々を総括し、留めておくことにする。(不定期連載)

法道院時代

 始めに、大草一男がいかに巧みに宗内を泳いできたのか、その軌跡を辿ってみる。
 大草は昭和47年2月、18歳の時に創価学会に入信したが、その後、仲間を引き連れて学会を脱会し、昭和48年4月、早瀬日慈総監(第68代管長・早瀬日如の父親)が住職を務めていた「法道院」(東京都豊島区)に所属した。
 しかし大草とその仲間は当時法道院の内部で孤立し、法道院幹部から顰蹙を買い謗法呼ばわりされていたという。
 昭和52年、宗門(第66代管長・細井日達)と創価学会(第3代会長・池田大作)との間に不和が生じると、池田大作は「法器会」という派閥を率いて宗内に隠然たる勢力を有していた宗門ナンバー2の早瀬総監に肩入れを始める。これが細井日達には大きな脅威に映った。
 この僧侶間の派閥争いを知った大草は、それを奇貨として細井日達に取り入ることを画策し、法道院の住職である早瀬総監を追い落とさんとした。
 大草は法道院の機関紙に掲載された教学未熟な信徒の記事等を利用し、〝法道院は住職を重んじ、猊下を軽んじている〟などと讒言を構えた上で
 「現御法主日達上人猊下は、今の全世界に唯一人、我等が主・師・親、現時における日蓮大聖人様と拝し奉るべき御方なのである」(「法道院信徒209名 離籍の真相」)
 などと馬鹿げた諛言を主張した。
 この他にも大草は「現御法主上人猊下を生きておられる日蓮大聖人様と仰ぎ、……猊下の御振舞の中に生身の大聖人様の御振舞を拝し」(暁鐘5号)、「法主上人猊下は生きておられる御本仏日蓮大聖人であり、生きておられる御本尊様」(同前)、「常に御法主上人猊下の御指南を、全て、そのまま大聖人の御金言と拝し」(暁鐘19号)などと諂っているが、馬鹿も休み休み言え。
 正本堂の誑惑に加担した貫首が「主・師・親」「現時における日蓮大聖人」である筈がない。末法万年に「主・師・親の三徳」は日蓮大聖人ただ御一人であられる。
 かくて思惑どおり、短慮で感情が激しい細井日達の〝早瀬憎し〟の思いにつけ入ることに成功した大草は、昭和52年12月末、仲間とともに法道院を離籍して大石寺塔中の「理境坊」(住職は小川只道)所属となり、それ以後、細井の下で謀略活動を展開した。
 一方、早瀬総監は、大草の讒言を取り上げた細井日達によって辞任に追い込まれた。この「法道院離籍事件」については、追って詳述したい。

寄生虫たる所以

 ところが昭和54年7月22日に学会との抗争に性心を労した細井日達が急逝すると大草は、池田大作の庇護を受けて新たな管長となった阿部日顕に取り入ることを企て、掌を返す。
 なんと大草はそれまでの反学会の姿勢を変遷させ、阿部日顕に同調して池田大作と学会を擁護するとともに、つい先日まで細井日達の下で共闘していた反学会活動家僧侶ら(後の正信会)への攻撃を開始した。
 変節漢の面目躍如といったところだが、この男の行動原理が大聖人様の御目を些かも恐れず、ただ利害で動いて時の貫首に諂い点数稼ぎをするだけであることがわかる。
 参考までに、大草が池田大作と学会を擁護した具体例を少しだけ挙げておく。
 大草は、偽戒壇正本堂の大前机に刻まれた、醜悪にして不敬の極みというべき池田大作の裸体レリーフについて「池田氏とは似ても似つかぬ顔」(暁鐘51号)などと書き、大いに宣伝してみせた。
 また池田大作正本堂完工式にバチカン市国キリスト教神父を招いた謗法与同についても、大草は「バチカン外交官の二名が着ていたのはスータンと呼ばれる外出着であって、法服などではない」(「続・摧破異流儀考」)と謀り、池田を擁護した。
 こうした破廉恥なまでの変わり身の早さが功を奏し、大草は学会と一体の阿部日顕に取り入ることにも成功した。その様は、寄生虫が巧みな生存戦略を駆使し、新たな宿主に乗り移るがごとくである。
 これが大草一党を「宗門に深く巣食った寄生虫」と呼ぶ所以の一つである。
 余談だが、大草は配下の妙観講員にインド・ネパールにおいてデタラメ勧誘を大規模に行わせ、大草自身も現地人の歓心を買うため謗法(ヒンズー教や釈迦仏法)に与同し、早瀬日如管長がぶち上げた「法華講員80万人体勢」の虚構に貢献した。
 大草としては、「親の仇」として自身を憎悪する早瀬日如管長に恩を売ることで、阿部日顕の命終後も生き長らえようと苦心したのであろう。

顕正会への異常な怨嫉

 阿部日顕に寄生した大草一党の対立相手への謀略活動はえげつなさの極みで、当然その矛先は宗門の御遺命違背を徹底糾弾される浅井先生にも及んだ。
 大草の配下の妙観講員らの中には、「極悪謗法集団・顕正会」「一日も早い顕正会壊滅の実現に向けて、精一杯御奉公させていただく決意」「犬性界壊滅への戦いを進める」「犬性界の撲滅に、力の限り共に闘わせていただきます」などと異様な宣誓をする者のほか、顕正会の会館付近に出没して浅井先生を誹謗中傷する者、果ては顕正会員に暴行まで振るう者もいた。
 また大草は阿部日顕の歓心を買うためにタバカリに満ち満ちた悪書を物し、学会・宗門が蜜月状態の時代には偽戒壇正本堂を〝御遺命の戒壇〟と讃嘆し、池田大作の御遺命違背を正当化しようとした(ちなみに大草は正本堂崩壊後、悪書の中で都合が悪くなった記述を急いで削除・修正し、「新編」として発刊し直すという小細工を弄している)。
 なお妙観講において理事や教学部長等の要職を歴任した渡邉茂夫は、昭和63年から平成元年頃、顕正会女子部長宅の「電話盗聴」に及んでいた(歴とした〝犯罪〟である)。

対学会抗争でペテン性を発揮

 浅井先生の捨身の諫暁によって「本門寺改称」の陰謀が潰えた平成2年末頃より、学会と宗門との間で「修羅と悪竜の合戦」そのままの大抗争が勃発すると、学会は昭和38年に阿部日顕が出張授戒のためアメリカに赴いた際に売春婦とトラブルを起こしたとされる「シアトル事件」をはじめ、阿部日顕のスキャンダルを次々と暴露した。
 阿部日顕は「提婆の虚誑罪」「倶伽利の欺誑罪」にも勝るとも劣らない大草のペテンを利用して窮地を脱することを目論み、平成5年1月、自ら「慧妙」と命名した宗門謀略紙を創刊し(阿部日顕が題字を揮毫)、その編集・発行を大草一党に行わせた。
 例えば「慧妙」は池田大作を貶めるため、〝池田に3回も強姦された〟という元学会幹部の大ウソ(信平狂言事件)を大々的に報じるなどした。
  ウソや詭弁で学会のスキャンダル攻撃から守ってくれる大草と「慧妙」を大変重用した阿部日顕は、「慧妙」のエゲツナイ紙面に嫌悪感を懐く宗門僧侶の尻を叩き、各末寺の寺院会計で「慧妙」を多数部購読するよう強要までした。
 かくて阿部日顕の直属の謀略部隊としてその要求に応え続けた功績により、大草は平成16年、阿部から「法華講大講頭」(全信徒を代表するような立場)に任命される。
 しかし平成17年、浅井先生が顕正会の解散を賭して「僧侶・信徒を問わず代人を立てることを認める」等の約定で公開対決を阿部日顕に申し入れたところ、阿部日顕以下の全宗門僧侶に加え、「顕正会撲滅」を掲げていた大草も〝敵前逃亡〟してしまう。
 その後、大草一党は帝釈に責められて無熱池の蓮の中に小さくなって隠れた修羅のように鳴りを潜めていたが、細井日達の悪臨終が明るみとなった平成30年9月頃より蠢動し始め、敵前逃亡の汚名を返上せんと再び謀略活動を行うようになった。
 妙観講員が大草の指示に基づいて顕正会員に暴行・迷惑行為等に及ぶ事件も複数発生し、有罪判決を言い渡される妙観講員も出た。
 また「慧妙」は、あたかも浅井先生が大草一党から逃げているかのように印象付けようとして、「カエリタマエ」との捏造音声を公式サイトにアップし、これを大々的に喧伝するという反社会的な行為にまで及んだ。
 なお、こうした大草一党の悪行は、裁判所から「顕正会員らに対する迷惑行為に当たることは明らか」「妙観講員による迷惑行為、暴力行為……原告妙観講(原告大草)の事後対応の内容等という社会的非難の対象になる行動、言動」などと認定・断罪されている。

事実上の「大講頭」解任

 かねてより大草一党の海外でのデタラメ勧誘や悪行を問題視した宗門執行部は、大草を呼びつけて事情聴取を行うなどし、ついに令和4年3月末、「任期満了」を理由に大草の法華講大講頭の任を解いた。事実上の解任だ。
 二代の貫首に取り入り、法華講を統べる立場になることを夢見ていた大草の切歯扼腕する姿が目に浮かぶ。
 次回以降、大草の悪行等を具にみていく。(天皷)