世相閻魔帳

顕正新聞のコラム「世相閻魔帳」

宗内に巣くう寄生虫「妙観講」の実態②〈法道院離籍事件〉

世相閻魔帳85「顕正新聞」令和5年9月25日号

 日蓮正宗(宗門)第67代管長・阿部日顕直属の謀略部隊「妙観講」(講頭は大草一男)の前身は、元々「法道院」(東京都豊島区)に所属していた大草が仲間を引き連れて法道院を離籍し、大石寺塔中「理境坊」に移籍後に結成された「理境坊東京支部」である。
 今回は、大草の「法道院離籍事件」について委細に見ていくが、その経緯を知るだけでも大草が類い希な謀略性の持ち主であることがよく理解できよう。

顰蹙を買う大草ら

 当初、創価学会に入信していた大草は学会を脱会し、昭和48年4月、19歳の時に早瀬日慈総監が住職を務める「法道院」で入信し直した。
 しかし野心家の大草は法道院に馴染もうとはせず、法道院で行われる御講を「毎回、同じパターンで繰り返される思想訓練」などと侮蔑し、専ら自らを中心とした勢力の培養に躍起になっていた。ために大草は他の法道院信徒から白い目で見られ、謗法呼ばわりされていたという。
 ちょうどこの頃より、それまで一体のごとくに見えた学会・宗門の関係に亀裂が生じ始めた。正本堂落成一周年記念法要の折、浅井先生に諫められるたびに態度をクルクル変える細井日達に不信を懐いた池田大作が大衆の面前で細井日達を怒鳴りつけた上で、学会に13億5千万円を寄付するよう要求したことで、細井日達も学会批判を展開するようになっていったのだ。
 ところが、当時の宗務院は早瀬総監・阿部信雄教学部長(後の日顕)といった親学会派僧侶で占められており、細井日達は自身の意を蔑ろにする早瀬・阿部の宗務役僧の姿勢を折に触れて非難していた。
 昭和52年、細井日達池田大作の不和が表面化すると、細井日達は反学会活動家僧侶(後の正信会)に檄を飛ばし、法華講員に対しても学会に対抗するよう呼び掛けた。
 大草は親学会派僧侶の早瀬総監を憎む細井日達に取り入ることを画策し、早瀬総監を重んずる法道院幹部の言動に噛みつき、法道院のあらゆる席で「御法主日達上人猊下におこたえしよう、猊下を死守奉ろう!」などと殊更に主張するようになる。
 こうした大草の行動を目障りに思った法道院幹部らが大草とその仲間たちを窘めるも、陰湿で狡猾な大草らは、かえって彼らを挑発してはその発言を秘密裏に録音していた。

「本従の師」問題

 その頃、法道院の機関紙「法之道」(昭和52年8月1日号)に「日蓮大聖人の仏法を教え、導いてくれる『本従の師』御主管(早瀬総監)の指導通り、勇躍歓喜して……」と「本従の師」を誤用した教学未熟な信徒による記事が掲載された。言うまでもなく「本従の師」とは、末法においては御本仏・日蓮大聖人の御事である。
 かかる筆禍事件を奇貨として大草とその仲間たちは、法道院執事だった志岐長道や法道院幹部らに当該記事に関する見解を問い、その回答も隠し録音した。

細井日達の「肖像画」事件

 また、大草は昭和52年11月16日、大草の自宅で行われる御講に赴いた志岐長道が部屋にかけてあった不出来な細井日達肖像画法道院の婦人部幹部が描いたもの)を見て「なんだ、こりゃ!」と口走ったことを密告した。
 細井日達は憤慨し、会合で「私の弟子でも、私の写真に対して『これは何だ』と云った人もあるそうだ。誠に恐ろしい世の中だ」(「蓮華」第84号)と述べている。大草にまんまと乗せられたようだ。

法道院離籍

 かくて早瀬総監を追い落とすに足る材料を収集した大草は、昭和52年12月27日、満を持して東京都文京区の大石寺出張所に下向していた細井日達に直訴し、〝法道院は住職を重んじ、猊下を軽んじている〟などと讒言を構えた。
 〝早瀬憎し〟の細井日達は、大草の告発を渡りに船とばかりに喜び、その場で大草グループの法道院離籍を認めた。
 まんまと細井日達を誑し込むことに成功した大草は翌28日、209名の仲間を引き連れて法道院を離籍し、その後、細井日達の庇護を受けて塔中理境坊(住職は小川只道)の所属となった。

有力信徒を踏み台に

 ちなみに、この209名は当時23歳だった大草一人の力で引き連れたわけではない。
 大草は、当時法道院の婦人部長そして法華講連合会の幹事も務めていた高齢の倉持治子という有力信徒を抱き込み、倉持の人望を利用して大勢の者を離籍させたのだ。細井日達に直訴する際も、大草は倉持を同席させている。
 そもそも、当時の大草のグループはわずか10名程度で、残りの約200名は倉持の率いるグループであったという。ために法道院離籍後、妙観講の前身たる「理境坊東京支部」の支部長に就任したのは、大草ではなく倉持だった(大草の役職は「総部長」)。
 しかしその後、倉持治子は用済みとなったのだろう。法道院の離籍後ほどなくして、倉持は別寺院への移籍を余儀なくされた。

冊子「離籍の真相」

 法道院を離籍した直後の昭和53年1月25日、大草はそれまで秘密裏に録音していた法道院幹部らとのやりとり等を巧妙に悪用し、法道院離籍の経緯を自らに都合よくまとめた冊子「法道院信徒209名 離籍の真相」を発刊する。
 その中で大草は「我々は、さいわいにも、御法主日達上人猊下を根本の大師匠と堅く信じ奉ることができ、無間地獄への道を救われた」と細井にゴマをすっている。
 また巻末には「移籍者の体験手記」として「法道院法華講の思想が日蓮正宗から逸脱している」「日蓮正宗とはかけ離れた謗法思想」「此の度、法道院を離脱でき、……本当に最高の慶び」などと仲間に書かせ、やはり法道院と早瀬総監を徹底的に叩いている。
 指導教師の小川只道もこの冊子に序文を寄せて「今、彼等(大草ら)に対し、邪心を以て悪口・誹謗を浴びせる者は、日蓮正宗の信仰を妨げ、延いては御法主上人猊下に敵対する大謗法の者と断ぜざるをえない」と離籍した大草らを擁護し、早瀬総監ならびに法道院幹部らを暗に「大謗法の者」とまで断定して貶めている。

早瀬総監、辞任

 その後も細井日達は、大草から得た情報をもとに寺族同心会等の会合や法要において法道院を批判し、早瀬総監をこき下ろした。
 さらに細井日達は仇敵である早瀬総監に対し、大草が作った悪意に満ちた「離籍の真相」を〝全国から大石寺に参集した末寺住職に配布せよ〟と命じた。
 かくて早瀬総監は法道院を徹底して貶めた「離籍の真相」を大勢の宗門僧侶一人ひとりに手渡しで配らされるという辱めを受け、その一年後の昭和54年4月、「総監」を辞任させられた。

法道院では堕獄〟

 大草は「離籍の真相」発刊後も配下の面々に「暁鐘」誌上で法道院と早瀬総監に対する悪口中傷を執拗に行わせた。一例を挙げる。
 「猊下様をないがしろにする法道院
 「私達は、総部長(大草)の本当に猊下様をお慕いし、あくまでも猊下様を根本の師匠とした信心のおかげで、地獄に堕ちるのをまぬがれてきた
 「理境坊支部になって今、一番嬉しい事は、法道院時代には、どんなに願っても叶わなかった僧俗和合のすばらしい姿が、小川御住職との間に確立されたこと
 「離籍した功徳が、今になっても厳然と現われている」等々。

早瀬管長の腹の内

 翻って思うに、実父の早瀬総監が大草らから受けた屈辱を早瀬日如管長が忘れる筈がなく、このことは早瀬日如管長の人事を見ても優に窺われる。
 早瀬日如管長は登座から暫く経った後、かつて大草が槍玉に挙げた「本従の師」に関する記事を書いたとされる法道院信徒・篠田泰夫に「法華講大講頭」と「法華講連合会副委員長」の役職を与え、同人の宗内における地位を大草よりも上に据えたのだ(当時、大草の役職は「法華講大講頭」のみだった)。
 また篠田の死後、早瀬日如管長は、大草より遅れて法華講大講頭となった関野洋夫(久遠寺信徒)を後任の副委員長に任命し、関野が委員長に繰り上がると、またも大草より遅れて法華講大講頭になった矢澤正人(法道院信徒)を副委員長に任命した。
 これらの人事は大草に対する明らかな「当てつけ」と言えよう。
 そして令和4年3月末、大草が「法華講大講頭」を任期満了という理由で事実上〝解任〟されたことは、これまでに述べたとおりである。

大草の大誤算

 まさか自らが追い落とした早瀬総監の子が管長に成る日が来るとは、当時の大草は全く想像していなかっただろう。
 実際、大草は「離籍の真相」で「『早瀬一族から次の猊下がでるのは当然のことだ』など、とても信じられぬ発言が阿部氏法道院信徒)よりあった。どうやら、未だ見ぬ六十七世御法主上人を拝み、現在只今の信心を失ったらしい」と早瀬日如管長を含めた早瀬一族を蔑んでいる。
 阿部日顕という宿主を失った父親の仇敵を早瀬日如管長がいかに駆除するのか見物である。(天皷)