世相閻魔帳87「顕正新聞」令和5年10月15日号
今回は、大草一男が保身のために学会ベッタリの阿部日顕に取り入ることを画策し、それまで細井日達の下で共闘していた反学会活動家僧侶らを攻撃し、池田大作・学会の擁護を展開するに至った変節ぶりについて述べる。
日顕の登座で学会擁護に
昭和54年7月22日に細井日達が急逝し、池田大作のバックアップを得て親学会派僧侶の筆頭・阿部日顕が第67代管長に就任すると、宗門情勢は急変した。
すなわち細井日達の急逝までは反学会活動家僧侶(後の正信会)による「正信覚醒運動」(池田大作や学会の教義逸脱を責める運動。しかし細井日達を拠り所とするため、最も重大な御遺命違背については無視・黙殺している。所詮は同じ穴の狢)が勢いを増しており、大草らもこれに加担していた。
しかし新管長・阿部日顕は、宗門僧俗による反学会活動を禁止するのみならず、池田大作と学会の擁護を強要した。
「僧侶は学会の過去の誤り等を指摘し批判する言動は慎まなくてはならない」(昭和54年10月8日付け院達)
「尠くとも日蓮正宗の僧侶と名乗り、日蓮正宗の信徒と称するなら、私の意を受けて具体的に行政上実施している宗務院の方針に従っていくことが肝要であります。もしこれを踏み外して従わないならば、……私の統率する宗団の外へ出てからやってもらいたい」(昭和55年1月26日・全国檀徒総会)
「正法流布の大実績を持つ唯一の信徒団体である創価学会の逸脱は、……既に改めんと決意し、行いつつある以上、現在において謗法をあげつらう事は大きな誤りであります」(同年4月6日・御代替奉告法要)等々。
反学会僧侶を宗門追放
また昭和55年9月24日、阿部日顕は〝反学会活動禁止〟との指示に従わない反学会活動家僧侶201名を宗門追放し、その後も随時、反学会活動家僧侶を追放していった。
かくてイエスマンの僧侶だけで宗内を固め終えた阿部日顕は、昭和59年1月2日、法華講総講頭を辞任していた池田大作を再び総講頭に任命した。
大草の変節ぶり
阿部日顕の登座後、大草と妙観講・指導教師の小川只道(理境坊住職)は暫くの間、反学会活動家僧侶らとともに学会批判を継続していた。
この頃の妙観講の機関誌「暁鐘」には、小川只道と兄弟のような間柄だった西本暁道をはじめ反学会活動家僧侶らの寄稿文のほか、学会を批判する記事等が数多く掲載されている。
だが反学会活動家僧侶201名の宗門追放という阿部日顕の容赦のない弾圧がなされてから暫くすると、大草らはそれまでの反学会の姿勢を一変させ、阿部日顕に同調し、池田大作と学会の擁護に転じた。
また大草らは昭和56年3月より、「暁鐘」誌上において細井日達の下で共闘していた反学会活動家僧侶(正信会)への攻撃を開始している。
しかし宗門僧俗の中からは、露骨なまでの変わり身を図った大草らに対する嘲笑ないし批判、さらにはその無節操を次のように糾弾する声も上がった。
「最近、『暁鐘』の内容が変わってきたように思います。当初は正信覚醒運動に役立つ雑誌であると思っていましたが、とくに本年(昭和56年)に入ってからは、正信覚醒運動の悪口を書いた記事が載るようになってきました。いったい、どういう理由で編集方針を変えたのか、謗法の権力(池田大作と阿部日顕)に諂って正信を捨てたとしか思えません」(暁鐘40号)と。
奇策を弄する
こうした批判に対し、大草らは懸命に詭弁を並べ立てて釈明するとともに、〝正信覚醒運動を止めることこそ細井日達の意志である〟と謀る「奇策」を弄した。
具体的には、次のエピソードを唐突に開陳したのである。
「日達上人が御遷化あそばされる直前の七月のある日、理境坊住職・小川只道御尊師は、総本山大奥において日達上人より『どうも正信覚醒運動の方向性がおかしい。やがては総本山にも矢を向けることになりそうだ。もし、あのメンバーに入っているのなら、今のうちに脱けておきなさい』との御指南を賜わっており、他の御僧侶方にも学会の様子をみるために、しばらくの間正信覚醒運動を止めるように御指南されたと伺っています」(暁鐘40号)と。
要するに、大草らは変わり身の正当化を図りつつ、亡き細井日達の意志を踏襲しているのは反学会活動家僧侶(正信会僧侶)ではなく阿部日顕であるかのごとく宗門僧俗に印象付けることで、阿部日顕の正信会弾圧と学会擁護の言動に大義名分を与えるという貢献をしてみせたのだ。
死人に口なし
しかしながら〝細井日達がしばらくの間、正信覚醒運動を止めるように言った〟というエピソードは、大草らが保身のためにでっち上げたものである可能性が高い。なぜなら前記のとおり、大草らは反学会活動家僧侶らとともに、阿部日顕登座後も暫くの間は学会批判を継続していたからだ。
しかも大草らは細井日達の急逝後に発行した暁鐘20号(「日達上人猊下御遷化奉悼号」昭和54年9月1日発行)に、反学会活動家僧侶・西本暁道の「御遺訓を胸に、さらに正信覚醒を」と題する追悼文を掲載している。
また同号には小川只道の「御師範日達上人を偲び奉りて」と題する追悼文も掲載されており、そこには次の記述がある。
「(細井日達の)最後の御親教となった、妙流寺における御指南(昭和54年7月17日)の中に、『よく学会の人が間違ったことを言いますね。師匠が地獄へ行ったら自分も地獄へ行っていいんだ。そういう考えは大変な間違いです。……』と仰せられているのを拝すれば判然とするであろう。最後の御説法にまで、正信覚醒の御指南をされていたことをけっして忘れてはならない」と。
この小川只道の追悼文に記されている細井の〝遺言〟とも言うべき最後の説法の内容は、反学会活動家僧侶らが処分された後になって大草らが開陳した先のエピソードの内容と正反対なのである。「死人に口なし」とはよく言ったものだ。
結局、大草らは「現御法主日達上人猊下は、今の全世界において唯一人、我等が主師親、現時における日蓮大聖人様と拝し奉るべき御方」(離籍の真相)などと諂っていたにもかかわらず、窮地に追い込まれた途端、その細井日達の〝遺言〟を抛ち阿部日顕に〝命乞い〟をしたと言えよう。
池田大作を擁護
かくて大草と小川只道は、細井日達の下で共闘していた僧侶らが尽く宗門追放されていく中、宗内に生き残り、阿部日顕に取り入ることにも成功した(昭和57年5月、小川只道は「大石寺理事」に出世している)。
それ以降、大草らは阿部日顕(実際には池田大作)の〝池田と学会を擁護せよ〟との意向を忠実かつ露骨に実現していく。その様はあたかも「学会の走狗」であった。
いくつか具体例を挙げれば、暁鐘51号では、偽戒壇・正本堂の大前机に刻まれた醜悪にして不敬の極みというべき池田大作の裸体レリーフについて、「弊室編集局メンバー数名は、大前机に刻まれた像の顔が『文春』掲載の写真とはまったく異なっている(※写真では前向き、実際には完全な横向きで、しかも池田氏とは似ても似つかぬ顔であった)ことを確認しております」などとヌケヌケと述べ、池田を擁護した。
また暁鐘85号では池田大作の「立正安国論講義録」の一節を引用した上で「二十年前の講義でありながら、……まさに光彩を放つではないか」と讃嘆している。
偽戒壇・正本堂を讃嘆
さらに大草は昭和63年、偽戒壇・正本堂を擁護するタバカリを並べた悪書「摧破異流義考」を発刊し、その中で正本堂を讃嘆している。
「まさに大石寺正本堂は御宝蔵・奉安殿等とは異なり、今日の大石寺の本堂にして、やがて広布の時至れば大本門寺本堂たるべき堂宇である」
「本門戒壇の大御本尊まします我が日蓮正宗富士大石寺こそ、本門事の戒壇の根源にして、広布達成の暁においては、『一期弘法抄』『三大秘法抄』に御示しの意義を顕現する大本門寺戒壇なのである」と。
しかるに大草は正本堂崩壊の約半年後、これら都合が悪くなった記述をちゃっかり削除・修正した「新編・摧破異流義考」をシレっと発刊している。実に姑息と言う他ない。
池田とともに串刺しにされた大草
最も滑稽なのは、当時、浅井先生が「正本堂完工式にバチカン市国のキリスト教神父を招いた池田大作の謗法与同」を追及したところ、なぜか大草がしゃしゃり出てきて
「正本堂完工式に出席したのは、駐日バチカン外交官」
「バチカン外交官の二名が着ていたのはスータンと呼ばれる外出着であって、法服などではない」(続・摧破異流義考)
などと謀って池田大作を懸命に擁護したにもかかわらず、後年、このタバカリを宿主である阿部日顕に粉砕されてしまったことだ。
すなわち阿部日顕は学会と宗門が再び抗争に陥った後、池田大作が正本堂完工式に神父を招待した謗法与同の事実を暴露して攻撃した。いわく
「池田大作は、御本尊についても誤り、戒壇についても誤りましたが、これらの元はすべて、根本が解っていなかったのであります。……それが、正本堂の建立の時にキリスト教の僧侶を招く考えとなったのであります」(平成5年5月28日・第三十五回寺族同心会大会)
「池田大作は、あの正本堂建立の時に、……バチカンのキリスト教関係者をその祝いの席に招いております」(同年6月20日・北陸布教区親教)
「あの正本堂の完工式の時にキリスト教の者を招き、しかもキリスト教の法服を着けた形で正本堂の中に入れた」(同月27日・新潟布教区親教)と。
大草は、阿部日顕によって池田大作とともに串刺しにされてしまったのだから片腹痛い。
以上、これら大草の破廉恥なまでの変節ぶりを知れば、大草率いる妙観講が、ただ己の保身のために時の貫首に諂って点数稼ぎをするだけの集団であることがよく理解できよう。(天皷)