世相閻魔帳

顕正新聞のコラム「世相閻魔帳」

度し難い自家撞着にみる宗門の無道心

世相閻魔帳73「顕正新聞」令和5年5月25日号

 妙観講々頭・大草一男が編集・発行に関与している宗門謀略紙「慧妙」(令和5年5月1日号)は、宗門(日蓮正宗)の研究機関「日蓮正宗教学研鑽所」(以下「研鑽所」という)が「日蓮宗教学研究発表大会」をはじめ様々な邪宗の学術大会等に積極的に参加し、邪宗関係者を破折せずに親交を深めている腐敗堕落・謗法与同の実態等を糊塗せんと、前号(同4月16日号)に引き続き、またぞろ墓穴を掘る記事を掲載した。
 言うに事欠いて、あたかも顕正会が学会と連携したかのように邪推し、妄想を膨らませているから、とんだ笑い草だ。

開き直って謗法容認

 法華講大講頭を解任され焦燥感に苛まれた大草が「点数稼ぎ」で宗門の謗法与同を弁明せんと「躍起」になるのもわからなくはないが、いつも余計なことをしてドツボに嵌まるのが大草一党の悪い癖である。
 と言うのも大草一党は今回の慧妙に、あろうことか大聖人様の御金言と日興上人の御遺誡に相反する主張を臆面もなく掲載しているのだ。いわく
 「身延僧が大石寺を訪れることも、それを案内することも、また日蓮正宗の僧俗が神社仏閣を見学することも、謗法にはあたらない」
 「山内見学については、申請があり、かつ、その内容に問題がなければ誰にでも許可を与えているが、それが他宗の僧侶であれば、法衣ではなく、平服で見学に訪れるように伝えている」
 「場合によっては大石寺の僧侶が山内を案内することもあるが、そのような時、先に示したように宗門の御僧侶は、破邪顕正の象徴たる、法衣に白五条の袈裟の姿で対応している」と。

御金言と御遺誡を拝せ

 言わずもがな、大聖人様・日興上人は謗法与同を厳に誡められ、悪鬼が乱入した寺社詣でを厳しく禁じられている。
 すなわち「秋元御書」には
 「譬えば我は謀叛を発さねども、謀叛の者を知りて国主にも申さねば、与同罪は彼の謀叛の者の如し」と。
 或いは「曽谷殿御返事」には
 「涅槃経に云はく『若し善比丘あって法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是我が弟子、真の声聞なり』云云。此の文の中に見壊法者の見と、置不呵責の置とを、能く能く心腑に染むべきなり。法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし。乃至、謗法を責めずして成仏を願はば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなし、はかなし。いかに法華経を信じ給うとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんがごとし」と。
 また第二祖・日興上人「遺誡置文」には
 「一、檀那の社参物詣でを禁ずべし。何に況んや其の器にして、一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣づべけんや。返す返すも口惜しき次第なり。是れ全く己義に非ず、経文御抄等に任す云々
 「一、謗法と同座すべからず。与同罪を恐るべき事
 「万年救護の為に二十六箇条を置く。後代の学侶敢て疑惑を生ずる事勿れ。此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず」と。
 これらの御金言・御遺誡に照らせば、戒壇の大御本尊様を怨嫉する身延僧らを見ながら放置して、呵責も駈遣も挙処もせず、まして身延僧を大石寺に招き入れて歓待したり、邪宗関係者らと肩を並べて無益な研究発表をしたり、わざわざ一見(物見遊山)と称して神社仏閣に平然と足を運んだりしている現在の宗門僧俗は、「仏法の中の怨」との誹りを免れず、無間地獄に堕ちること必定ではないか。
 この謗法に対する潔癖性のなさこそ、大草一党に信心が無いことの何よりの証左である。
 なお大草一党は、あたかも第九世・日有上人以降、身延僧を大石寺に招き入れたり、宗門僧俗が神社仏閣に参詣したりすることが謗法ではなくなったかのごとく謀っているが、そのような事実はない。
 その証拠に小川只道(大石寺内事部理事・本山塔中理境坊住職)に大石寺を懇ろに案内され驚いた身延派僧侶・佐藤順映は「大石寺研修参拝記~他宗には門戸開かぬ大石寺に柔軟性」(「布教師会報」第20号)と題した記事に
 「時の推移とは云え過去頑迷なまでに他宗には門戸を開かなかった大石寺が、堂内外の案内に応じたという変化を我々は機敏にとらえ、柔軟な姿勢に最大限の評価を下し、更に日蓮門下の一員と云う連帯感の醸成に陰に陽に働きかける絶好の機と思うが如何であろうか
 と所感を記している。身延僧をしてかく言わしめた一事を見れば、大草の嘘は明白だ。

ダブルスタンダード

 しかも驚くべきことに、厚顔無恥な大草は妙観講の機関誌「暁鐘」(令和5年5月号)では「謗法与同の失」として、先の「曽谷殿御返事」等の御金言を引用し、次のように述べている。些か長文になるが敢えて引用する。
 「日蓮大聖人は、この文の中の『見壊法者』(法を破る者を見ながら)の『見』と、『置不呵責』(置いて責めない)の『置』という文字を、よくよく心に染めなさい。法華経の敵を見ながら(見)、放置して(置)責めないなら、僧俗ともに無間地獄に堕ちることは疑いない。中国の南岳大師が、『諸の悪人と倶に地獄に堕ちるだろう』と言われているのは、このことであると言われておられます
 「与同罪を免れるために、謗法の人々に『それは謗法である。いけないことだ』と教えて折伏をしなくてはならないのです
 「たとえば創価学会員が大石寺の誹謗をしているのに対し、『くだらない連中だから相手にしないでおこう』と思う。あるいは、『いずれ気付くだろう』と思って放置する。これでは与同罪になってしまうのです。……我々は、この道理をしっかりと胸に入れて、周りにいる謗法の人達を放置すれば自分も同罪になる、ということを覚悟しておかなくてはなりません
 「我々の周囲には、御本尊を信じることができない人、邪宗を信じている人がたくさんいます。そうした謗法こそが、そして、その人達の信奉する邪宗教こそが、仏法の正邪を紛らわしくして、正しい仏法を滅ぼしてしまう存在なのです。そのことを知っていながら、その謗法行為を止めようともしない。そういうことでは、自分も仏法の敵になってしまう
 「周りに邪宗謗法の人がいるのに、それをキチンと折伏しないと、自分も同じ罪になって後悔することになるのです」等々。
 よくもヌケヌケとこのような二枚舌を使えるものだ。この「暁鐘」に掲載された御金言ならびに大草の言葉に照らせば、宗門僧俗が身延派僧侶と誼を通ずることは明らかに「謗法与同」ではないか。
 本コラムで宗門僧俗の謗法与同を指摘されれば〝身延僧が大石寺を訪れても、宗門僧侶が袈裟衣を着けて案内しても、宗門僧俗が他宗寺院に見学に行っても何の問題もない〟と御金言に反する屁理屈を捏ね、かたや講員には〝謗法を折伏しなければ地獄に堕ちる〟と煽っているわけだ。
 この「ダブルスタンダード」「御都合主義」には呆れて言葉もでない。
 結局のところ「法門しりたりげ」に振舞う大草には、大聖人様の御眼を恐れる信心が全くなく、ただ大聖人様の御金言を都合よく利用しているだけなのである。

口先だけの早瀬管長

 このことは早瀬管長にも言える。早瀬管長は平成31年4月
 「法華経のかたき』すなわち、邪義邪宗の謗法の者を見ていながら、世をはばかり恐れて、折伏しないのは仏様の敵であり、たとえどのような智人・善人であったとしても、必ず無間地獄に堕ちるであろうと、大聖人様は厳しく仰せられているのであります
 「もし『法を壊る者を見て』すなわち、謗法の者を見ながら迫害を恐れて『呵責』誤りを厳しく責めもせず、『駈遣』追い払いもせず、『挙処』はっきりと罪過を挙げて糾明し、処断もせず、すなわち折伏をしなければ、それは『仏法の中の怨』であり、『若し能く駈遣し呵責し挙処』すれば、これは仏様の真の弟子であると仰せられているのであります
 などと宗門僧俗に発破をかけているから唖然とする。
 ならば、なぜ宗門は学会の御遺命破壊、すなわち偽戒壇正本堂の大誑惑を見ながら知りながら呵責もせず、阿諛追従したのか。正本堂が崩壊した今もなお御遺命の国立戒壇に尋常ならぬ怨嫉を懐き、未だ恬として恥じぬ宗門が「謗法を破折せよ」などと宣うは支離滅裂にも程がある。
 また、なぜ宗門僧俗の悉くは、日頃「謗法の徒」と罵っている浅井先生が百万顕正会の解散を賭してなされた平成17年の公開対決申し入れから、〝謗法の徒からの対決申し入れに応ずる道理はない〟との遁辞で逃げたのか。
 加えて近年における研鑽所々員の謗法与同を見れば、宗門の甚だしい言行不一致は火を見るよりも明らかだ。
 繰り返すが、とどのつまり彼らには大聖人様の御眼を恐れる信心がない。それゆえ御金言に違うとも意に介さず、ただ信徒を隷属させるための道具として御金言を利用しているに過ぎないのである。
 宗門は世親・馬鳴・嘉祥のごとく真の懺悔をなして、御遺命破壊の大罪を大聖人様にお詫び申し上げ、出直すべきだ。さなくば、宗門は凋落の一途を辿り、いよいよ餓鬼道に堕すこと必定である。(天皷)