世相閻魔帳

顕正新聞のコラム「世相閻魔帳」

阿部日顕の悪臨終とその悪行(2)

世相閻魔帳77「顕正新聞」令和5年7月5日号

 五月度総幹部会において、三大謗法を犯すも最期まで些かの改悔なき阿部日顕の悪臨終が明らかとなった。元宗門僧侶の証言によれば
 「その相は、色黒く、恐ろしい形相で、部屋中に悪臭が漂っていた。本来、宗門では『死に化粧』はしないものだが、あまりに色が黒かったので死に化粧をするしかなかった。しかし、何度塗っても白くならず、最後に厚塗りをして、何とか白くした」という。

信心なき関快道の謗言

 余談だが、先日、ある男子部幹部に阿部の悪臨終を責められた本山塔中・久成坊住職の関快道は、顕正新聞に阿部日顕の臨終の様が掲載されたことにつき「正気の沙汰ではない。キチガイ宗教」などと顕正会のことを誹謗していたらしい。道念なき食法餓鬼だから当然とはいえ、この男は臨終の大事が全く分かっていない。
 浅井先生は「一切は現証には如かず。善無畏・一行が横難・横死、弘法・慈覚が死去の有り様、実に正法の行者是くの如くに有るべく候や」(教行証御書)、「死する時は黒皮隠々として骨甚だ露わると申して、無間地獄の前相其の死骨に顕わし給いぬ。人死して後 色の黒きは地獄に堕つとは、一代聖教に定むる所なり」(神国王御書)との御金言を引かれ、大聖人様が真言の悪僧どもの悪臨終を重視しておられたことを指導くださり、また予てより数多の御書に大聖人様が臨終の証拠を以て成仏・不成仏を厳しく判じられ、仏法の正邪を立て分けておられることを御教示くださっているが、関快道の先の謗言はそのまま大聖人様に対し奉る謗言に当たることを知るべきである。
 話を本題に戻す。前回の本コラムでは、阿部の悪臨終の所以たる三大謗法のうち「御遺命破壊」を中心に述べた。今回は残る2つの阿部の悪行、すなわち身延派と誼を通じた「謗法与同」と「戒壇の大御本尊様に対し奉る誹謗」について簡単に述べる。

仏敵・身延派と連携

 20万法城を背景とした浅井先生の強烈な諫暁によって「本門寺改称」の陰謀が平成2年に潰え去ると、忽ち御遺命破壊の主犯たる池田大作と共犯の阿部の間に不和が生じ、「修羅と悪竜の合戦」そのままの凄絶な抗争が勃発した。
 それより阿部は創価学会との抗争に利用すべく、信心の欠片もない元学会顧問弁護士・山崎正友を取り込み、あろうことか戒壇の大御本尊様を怨嫉する「仏敵」たる邪宗日蓮宗(身延派)との連携を画策したのである。
 山崎が宗門に復帰する以前に阿部へ送った書簡には「全日仏、新宗連キリスト者同盟等々の他宗にも行動を起こさせるべく、根まわし中です。創価学会対策は、もはや一宗でできることではなく……」「全日仏の中心勢力は、東西本願寺で、他の教団はその動向を見ているようです。両教団ともようやく腰を上げる気配で、私のところへ、ゼミナールの要請が来ています。日蓮宗系からも、講演依頼が来ています」などとあらゆる邪教と連携して反学会運動を行っていく考えが縷々記されている。
 阿部はこのような山崎を平成6年12月に対学会の謀略活動に従事させるべく宗門復帰させ、大草一男率いる妙観講に所属させた。その頃より山崎の工作により宗門は身延派と連携するに至るのである。

身延派高僧らを大石寺に招く

 平成6年11月5日には、身延派の総本山・久遠寺内の志摩坊住職で山梨県第一部布教師会長でもある佐藤順映以下8人の身延僧が大石寺を参拝した。一行を懇ろに正本堂等の山内施設に案内したのは大石寺理事・理境坊住職・妙観講指導教師の小川只道だった。
 佐藤順映は「過去頑迷なまでに他宗には門戸を開かなかった大石寺」の姿勢が従前と様変わりしたことにたいへん驚き、「大石寺研修参拝記~他宗には門戸開かぬ大石寺に柔軟性」なる記事を「布教師会報」に公表した。
 その中で「懇切なる案内をしてくれた教師から、ほどなく一通の礼状が届いた」として、小川から届いた礼状の一部を紹介している。そこには「皆様の暖かなお心に触れ、外はめっきり寒くなっていたにも拘わらず、暖かな気持ちで御案内申し上げることができましたことを感謝しております」と記してあった。
 学会がいなくなり閑古鳥が鳴いている宗門の惨状を身延僧から憐れまれ、「日蓮門下の一員と云う連帯」まで持ちかけられた小川が「暖かな気持ち」になったであろうことは想像に難くないが、「戒壇の大御本尊の敵」たる仏敵を大石寺に招き入れた挙句、過剰なまでに媚び諂い「感謝」の意を表する礼状まで送るなど「仏法中怨」の誡めに背く許されざる行為だ。
 かかる悪行を小川の独断で行える筈がなく、全て阿部の意を受けたものであることは論を俟たない。
 また平成7年6月6日には、身延派管長に就任する直前の田中日淳の一行32人が大石寺を参拝し、宗門の能化・高野日海が袈裟衣を着けた正装で丁重に出迎え、正本堂をはじめ山内をくまなく案内し、一行を蓮葉庵で手厚くもてなした。
 山崎はこの日のことを同月24日、「国際正法協会」という邪教のシンポジウムで振り返り「6月6日に(阿部日顕)御法主上人にお目通りし、ねんごろに懇談した。今後のことも種々語り合った」として、その際の阿部の意向を踏まえ〝大石寺日蓮宗の僧侶が見学に来たが謗法として追い返すようなことはせず、丁重に迎えた。与同罪と言わずに、もっと広く皆と一緒にやることが大事だ〟などと述べている。
 この発言からも身延派と連携して対学会闘争の利を図らんとした阿部の魂胆が窺われる。

宗門僧俗も身延派寺院へ

 このように平成6年頃から身延派の坊主がグループで幾度も大石寺に参拝するようになる一方、宗門僧俗も身延派の本山や末寺等に参拝する謗法与同を平然と行うようになっていった。
 一例を挙げれば、法華講総講頭・柳沢喜惣次が、阿部日顕の息子・信彰(現在は能化・布教部長・常在寺住職の阿部日明)が住職を務めていた大修寺の法華講員を率いて身延山久遠寺に参詣したこともあった。
 日興上人の身延離山の大精神を蹂躙するこれらの許し難い所行には憤りと悲しみしか湧いてこない。

山崎正友の大謗法

 しかも身延派との仲介者である山崎は、積極的に身延派の集会に出席しては反学会運動を呼びかけ、ことに身延派・京浜教区教化研究会議(平成6年12月6日)に出席した際には「『板本尊偽作論』もその後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほしい」と発言し、身延派坊主どもに〝戒壇の大御本尊を攻撃せよ〟と嗾けた「戒壇の大御本尊様の敵」「大謗法者」である。
 このような男を重用し続け、身延派坊主とも誼を通じた阿部には、戒壇の大御本尊様に対し奉る信心が全く無かった。

戒壇の大御本尊様に対し奉る誹謗

 その最たる証左が、出世の芽がなくなったと思い込んだ阿部が腹心の参謀・河辺慈篤を前にして吐いた戒壇の大御本尊様に対し奉る許されざる誹謗の悪言だ。
 阿部は恐れ多くも
 御本仏大聖人の出世の御本懐、全人類成仏の大法、唯授一人血脈付嘱の法体、そして日興上人が「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊」と仰せられ、日寛上人が「就中 弘安二年の本門戒壇の御本尊は究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」と言い置かれた、最極無上・尊無過上の戒壇の大御本尊様に対し、口にするのも憚る大悪言を吐いたのである。
 あまりのことに仰天した河辺はその記録を残した。これが21年後の平成11年7月7日に流出した「河辺メモ」(昭和53年2月7日付)である。
 諸天の働きによって「河辺メモ」が流出したことで、〝戒壇の大御本尊と不二の尊体〟〝法主即大聖人〟とのたばかりで己れを荘厳り箔づけして無智な法華講員を欺いていた阿部の天魔その身に入る醜い正体が明らかとなった。

現世の罰

 かかる阿部の現世の罰も凄まじいものであった。
 自己申告で管長に就任した阿部は正信会や学会との抗争において「ニセ法主」「詐称法主」と罵られ、正信会側との裁判では、細井日達から阿部への相承が実在したことを表象する外形的事実は「一切存在しなかった」と認定されてしまった。
 また学会との抗争では「シアトル事件」(阿部が教学部長時代に学会の要請でアメリカに赴いた際、深夜に一人でホテルを抜け出して売春婦と金銭上のトラブルを起こして警察沙汰になった事件)を巡る裁判で三度も法廷に引き出された挙句、僧侶にあるまじき自身の醜行を学会弁護団から克明に暴かれ、その恥辱を宗の内外に晒した。
 加えて晩年は「心臓の手術をしたものの、傷口が感染症を起こしてなかなか治らず、また既往病歴も30以上」「腎機能もかなり低下し、顔色は常に黒ずみ、自分で老廃物を排出できないことから、左足の付け根から管を入れて透析する状態」「認知症の症状も加わり、自らの病状すら理解できず、透析の管を自分で引っ張って外しては血まみれになり、ために、つなぎタイプの病衣を着せなければならず、日々ナースコールが鳴り止まない深刻な病状」という惨状だった。

御裁断下る

 先生は「最後に申すべき事」の末文に
 「これが小生の最後の諫めである。もしこの言を卑しんで一分の改悔もなければ、後生の大苦こそまさに恐るべし。
 顕立正意抄の仰せに云く『我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず』と。
 以上、用捨は貴殿に任す。小生はただ謹んで
御本仏日蓮大聖人に言上し、御裁断を仰ぎ奉るのみである
 と記し置かれたが、まさに大聖人様の厳たる御裁断が下り、一分の改悔無き阿部は「阿鼻獄の相」を現じたのである。
 そして今般、宗門関係者がひた隠しにしてきたその悪臨終が諸天の働きにより明らかになったことこそ、大聖人様が御遺命を破壊した阿部の大罪を白日の下に晒され、末法万年にその悪臨終の現証を留め給うたものと伏して拝するばかりである。(天皷)