世相閻魔帳

顕正新聞のコラム「世相閻魔帳」

阿部日顕の悪臨終とその悪行(1)

世相閻魔帳76「顕正新聞」令和5年6月25日号

 五月度総幹部会において、宗門関係者がひた隠しにしていた阿部日顕の悪臨終が元宗門僧侶の証言により明らかとなった。いわく
 「その相は、色黒く、恐ろしい形相で、部屋中に悪臭が漂っていた。本来、宗門では『死に化粧』はしないものだが、あまりに色が黒かったので死に化粧をするしかなかった。しかし、何度塗っても白くならず、最後に厚塗りをして、何とか白くした」と。
 浅井先生は
 「これを聞いて驚くとともに『さもありなん』との思いが湧いた」
 と所感を述べられた後
 「では、阿部日顕の臨終の悪相は、いかなる悪行の結果であったのか」として、池田大作に諂い三大秘法抄の御聖意をねじ曲げ「正本堂を御遺命の戒壇」とたばかる二冊の悪書を書いた阿部日顕こそ、正系門家における「師子身中の虫」であると断ぜられた。
 以下、阿部日顕の御遺命違背に関する悪行を簡単にまとめる。

戒壇正本堂を讃嘆

 宗門高僧らは、池田大作正本堂発願式(昭和42年10月12日)で読み上げた「夫れ正本堂末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」との発誓願文に呼応して挙って宗門機関誌「大日蓮」(昭和42年11月号)に讃辞を寄せた。中でも阿部は
 「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、始めてその実現の大光明を顕わさんとしている
 と正本堂を「御遺命の事の戒壇」と言い切る諛言を寄稿した。

二冊の悪書を物す

 また阿部は池田大作を総指揮者とする学会首脳幹部で構成された妙信講対策グループの一員に唯一宗門僧侶として名を連ね「教義論争」等を担当し、国立戒壇を否定して正本堂を御遺命の戒壇と偽るため、二冊の悪書すなわち「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」を物した。
 二冊とも学会の弁護士・検事グループに「政教分離を定めた現憲法下において国立戒壇は実現不可能であり、民衆立の正本堂こそ、現時に即した御遺命の戒壇である」と教唆されて書いたものであり、そのたばかりを総括すれば次のとおりである。
 「王法」を「あらゆる社会生活の原理」とし
 「王臣一同」を「民衆一同」とし
 「有徳王」を「池田先生」とし
 「勅宣・御教書」を「建築許可証」とし
 「時を待つべきのみ」を「前以て建ててよい」とし、以て国立戒壇を否定して正本堂の誑惑を正当化せんとした。
 これあたかもインドから中国に渡った真言師・善無畏三蔵に「汝かきなんや」と唆された中国の天台僧・一行阿闍梨が「やすう候」と法華経を貶める誑惑の書「大日経の疏」を物したごとくである。

池田に罪を擦り付ける

 阿部は「不世出の大指導者たる総講頭池田先生……世界広布の中心者である総講頭池田大作先生……我々日蓮正宗の僧俗は、先生の推進されておる偉大な妙法の革命的意義を心からたたえ、又ほこりに思うものでございます」(昭和49年・虫払会講演会)
 「社会に開いた先生の教学はよくわかります。完璧であると思います」(昭和52年9月2日・学寮会談)
 などと池田に追従した甲斐もあり、細井日達が大事の御相承もなし得ずに急死した後、池田と示し合わせて猊座を簒奪することに成功した。
 それより二人三脚で平成2年の「本門寺改称」に突き進んだが、20万法城を背景とした浅井先生の強烈な諫暁によって本門寺改称の陰謀は潰え去った。それを機に池田と阿部が「修羅と悪竜の合戦」そのままの大抗争に陥ると、阿部は御遺命破壊の大罪を全て池田ひとりに擦り付けた。
 「その時はそのような空気が宗門を巻き込んでいった。その一番元は池田大作名誉会長が、大聖人の御遺命の達成であるという意味で、正本堂を『三大秘法抄』の戒壇であると指名したことであります」(平成3年1月10日・全国教師指導会)
 「顧みれば、あの当時、正本堂を何とか御遺命の戒壇として意義づけようとする池田会長と学会大幹部の強力な働きかけや、妙信講の捨て身の抗議があり、その間にあって宗門においても、正本堂の意義がいろいろ考えられました。……今顧みれば、あの時の『正本堂広宣流布の時に三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇となる』という趣旨の教学部見解は、宗祖大聖人の御遺命たる本門戒壇の正義よりみれば、適当でなかったと思います。……その背景には、正本堂建立発願主を含む創価学会の強力な意義づけに関する主張があったことを、今にして思うものです」(平成3年3月9日付け「回答書」)と。
 言わずもがな、阿部は池田の寵愛を得るため自ら積極的に正本堂の誑惑に加担した「共犯者」である。しかるに阿部はそれを棚に上げて〝一番悪いのは池田だ。宗門は巻きこまれただけだ〟と「被害者」を装ったのだ。これ卑怯卑劣の極みと言う他ない。
 阿部に改悔が微塵もないことは次の発言にも明らかである。
 「一遍、国立戒壇に関することを、私はある時期に、全部ご破算にしちゃおうかなと思っているんだけれども、まずいかねー。あれ(二冊の悪書)はもう一切廃棄する、破棄すると宣言したらどうかな。どうだ、面白いだろうな」(平成4年8月28日・全国教師講習会)と。
 御本仏を欺き奉り、数百万信徒をたぶらかした大罪を露程も感じていないことがわかる。
 池田への面当てとはいえ、このようなふざけた言辞を弄することができる阿部には全身の血が逆流する憤りしか湧かない。

国立戒壇を誹謗し続ける

 正本堂崩壊後の平成16年8月26日、先生が著わされた平成16年の一国諫暁の書が大規模に配布され居たたまれなくなった阿部は、「全国教師講習会」で全国の住職を前にして2時間40分もダラダラと言い訳を並べて二冊の悪書の幕引きを図るとともに、許されざる大謗法の悪言を吐いた。
 「教学部長時代とはいえ、書いた二書のなかにはどうしても当時、創価学会正本堂の意義付けに狂奔し、その関係者からの強力な要請もあって、本来の趣旨からすれば行き過ぎが何点かあったようにも、今となっては思うのです
 「結局、道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかったと思っております
 「昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論であると言ってよいと思います」等々。
 別しては日興上人への「一期弘法付嘱書」の助証、総じては門下に下し給うた「本門戒壇建立への御遺命」たる三大秘法抄の重大な御聖文をズタズタに蹂躙して正本堂を御遺命の戒壇と偽った大謗法を「行き過ぎ」「言い過ぎ」「はみ出し」との軽々しい言葉で片づけ、その罪を全て池田に擦り付けた挙句、「国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかった」との悪言を吐いて「国立戒壇」を誹謗し続けた阿部は、まさしく「謗法闡提」「逆路七逆の者」である。

悲惨極まる晩年

 かかる無慚無愧の阿部に対し先生は平成17年に百万顕正会の解散を賭して重ねて対決を申し入れられた。
 しかし阿部は完全に逃避、かくて先生は「最後に申すべき事」で阿部の三大謗法に止めを刺された。その三月後の「大扉開かず」の大現証によって退座した阿部は些かの改悔なきまま、先生が早瀬管長に対して阿部を宗門追放するよう直諫された58日後の令和元年9月20日、ついに命終した。
 令和元年10月の総幹部会で発表された、阿部日顕が晩年に都内の病院に入院していた際の悲惨極まるその姿が思い起こされる。いわく
 「阿部日顕は心臓の手術をしたものの、傷口が感染症を起こしてなかなか治らず、また既往病歴も30以上
 「腎機能もかなり低下し、顔色は常に黒ずみ、自分で老廃物を排出できないことから、左足の付け根から管を入れて透析する状態
 「認知症の症状も加わり、自らの病状すら理解できず、透析の管を自分で引っ張って外しては血まみれになり、ために、つなぎタイプの病衣を着せなければならず、日々ナースコールが鳴り止まない深刻な病状」と。
 池田大作と同様、阿部もまた現身に阿鼻の業苦に苛まれていたこと疑いない。

宗門僧俗は後生の大苦を恐れよ

 今般、諸天の働きにより阿部日顕の悪臨終が白日の下に晒された。
 御遺命破壊に加担した宗門は、世親・馬鳴・嘉祥のごとき真の懺悔を以て、御本仏一期の御遺命を破壊した大罪を大聖人様にお詫びし、「国立戒壇」の正義を宣揚しなければならない。
 顕立正意抄にいわく
 「我が弟子等の中にも、信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず」と。
 宗門僧俗は阿部日顕の悪臨終を刮目し、大聖人様の厳たる御裁断に恐れ畏むべきである。(天皷)